絶対に絶望しない、壮絶な艱難辛苦を乗り越えた中村久子の生涯に感動した
営業の神様こと加賀田晃さんの心の恩人の壮絶な生き様に感動を禁じ得ない
このブログで何回か取り上げている加賀田晃さんですが、今回もその著書‟営業マンは「商品」を売るな”
から、、、、
少年・加賀田晃に衝撃と感動を与えた中村久子の人生訓
一人目の恩人は「だるま娘」こと中村久子さんです。〈中略〉
中学生の頃だったでしょうか。はじめて中村久子の姿を目にしたとき、あまりの驚きに眼球が飛び出しそうになりました。
顔だけ見れば、柔和な、上品そうなおばあさんです。ところがその下にはあるべきはずの両手両足がない。〈中略〉
「私は見世物が生業(なりわい)ではございません。私は職業を持っています。これです。」
中村さんはそういうと、ピンと張った十数センチの麻糸を口くわえました。そしてもぐもぐと口を動かしたかと思うと、次の瞬間、彼女の口からきれいなチョウチョ結びになった麻糸が現れたのです。私は度肝を抜かれました。〈中略〉
そして中村さんは最後に筆をくわえ、大きな紙に”座右の銘”を書きました。
そこに何が書かれていたか ー私は一生忘れません。
為せばなる為さねば成らぬ何事も
成らぬは人の為さぬなりけり
—中村久子
それを見て私は思いました。世の中、やってできないことは何一つないと。
これを読んですごい人がいるものだなと思った。僕が子供の頃にそのような手足がなくてもなんでも自分でこなせる人の話を聞いた事がある。
そして、余計な話だが、やはり子供の頃に、まだ地元のお祭りに見世物小屋というものが来ていた時代、「蛇女」という怪しい見世物を見た事を思い出した。見世物小屋で蛇女さんは足で器用に工作をしたり、蛇を噛み殺したりしていた、、、それを見て一生懸命に拍手を送ったという自分の中の遠い記憶が蘇った。
とにかく、それでだるま娘こと中村久子さんについて調べてみた。
いかなる人生にも決して絶望はないのだ。
幼少の頃に病気で両手両足を失い、見世物小屋の芸人になる、それでも家族を持ち、子供を育て上げ、その後晩年は著述活動などを行った。米国人の三重苦の聖女といわれたヘレンケラーとも数度にわたり会見している。
それで、早速彼女の著作をアマゾンで注文した。
本の前半は彼女の凄まじい半生の自伝となっている。
次から次へやってくる艱難が割と淡々と描かれているが、、、とてつもないお話です。並みの苦労などではないです。
人生に絶望はない。確かにこの方の果し得たことから見れば、やってやれないことはないのだと思います。
自分の置かれた境遇をどう受け止め、考えて、行動するかです。
たとえば、彼女が子供の頃に苦労して口で使った人形を友達にあげますが、つばで濡れていて汚いとその子の親に捨てられてしまいます。それをお陰で、つばで物を濡らさずに裁縫ができるようになったと言っています。
自分に起こる不幸を自らの課題として克服し、そのことに感謝すらします。
本の第一部の最後にある「詩」です
ある ある ある
さわやかな
秋の朝
「タオル 取ってちょうだい」
「おーい」と答える 良人がいる
「ハーイ」という 娘がおる
歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる
断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな
秋の朝
「ない」ものでなく、「ある」のものにフォーカスしています。「ある」ものを生かしています。「ある」ものに感謝しています。
すごいです。みごとです。
それで、わたくしも、ちょっとやそっとの事で絶望したり、あきらめてはいけないと思うのでした。
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」(晩年に行われた講演会において)